

息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神、天鳥船神を相殿の神として祭られてある。
古くから国史にも見え鹿島香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社である。
岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神としての御神徳が顕著で神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものである。
社前の水中(川岸)に日本三霊水の一の忍塩井がある。俗に女瓶男瓶と云って、水中(川岸)の鳥居の中(一の鳥居の両側)にあって、この瓶から清水の湧き出でるが男瓶は銚子の形で、女瓶は土器に似て、一説には神代のものと云うが、常に水底に沈んで居り、晴天水澄む日でなければ見えない。
忍潮井は男瓶・女瓶と呼ばれる二つの井戸であり神功皇后の三年(一九四年)に造られたものと云われあたり一面海水におヽわれていた頃真水淡水の水脈を発見しこれを噴出させて清水が湧出しているところから、忍潮井の名がつけられたと伝えられている。水と人類とのかかわりの中で最も古いかたちの井戸であり日本三霊泉の一つと云われております。
「形状」男瓶は経二米弱、白御影石で銚子の形をしている。女瓶はやヽ小振りで土器の形をしている。
「三霊泉」常陸の忍潮井・伊勢の明星井[アケボノのイ]・伏見の直井[ナオイ]
「伝説」その昔(平城天皇の御宇大同二年四月(八〇四年)数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際とりのこされてしまった男・女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を溯ぼり一の鳥居の下にヒタリ据え付いたと云うこの地に定着して後もときどき日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと云われている。日川地区には瓶の鳴き声をそのまヽの「ボウボウ川」と瓶との別れを惜しんで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されている。
江戸時代に入るまでの利根川は一本の川ではなく、利根川は直接東京湾に注ぎ込み現在の利根川中・下流は常陸川と呼ばれていました。この二つの川が改修工事によって一本の河川となり、江戸への運路として成立したのが承応三年(一六五四)のことです。当時の江戸は急激に人口が増え、一大消費地となっていました。商品や農・水産物の多くは利根川を舟運によって上下し、その集散地となったのが川岸に点在する「河岸」でした。
利根川の舟運は物資の輸送に役立っただけでなく、旅行者にも大いに利用されました。この息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地からおしよせ、大変なにぎわいをみせたのです。
これらの人々を乗せて利根川を上下したのが「木下茶船[きおろしちゃぶね]」と呼ばれた乗合船・遊覧船でした。木下河岸から船出する船は、江戸中期には一日平均十二艘、年間約一万七千人あまりが利用したということです。男甕[おがめ]・女甕[めがめ]の忍潮井も神社とともに有名になり、伊勢の明星井、山城の直井とあわせて日本三所の霊泉と言われ、人々の評判となりました。旅人の中には松尾芭蕉を始めとして、多くの文人・墨客もこの息栖神社をおとずれ、その足跡を残しています。息栖河岸はまさに町域の玄関口であり、物資や人々の往来とともに江戸の文化や情報をもたらしてくれていたのです。
息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を、大同二年、右大臣藤原内麿の命により現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑篠、授常陸国 正六位上 於岐都説神従五位下」の於岐都説神とは息栖神社のこととされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)
古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。
祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。
江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関連を物語っていると思われる。
社殿は享保八年に建替えられたが、それが昭和三十五年十月焼失し、昭和三十八年五月に新たに完成した。末社、高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮。